風が心地良い。
久方ぶりに丸一日の休みが取れて、イルカは忙しさにかまけて溜め込んでいた洗濯物を片付け、湿っぽい布団を干し、シーツを洗濯し、雑多に散らかった部屋を片付け、午前中は終わってしまった。遅い昼食を取って、ほっと一息吐いた。持ち帰りの仕事もない、やるべきことはすべて済んだ。腹も膨れて、ごろりと転がれば睡魔が押し寄せてくる。イルカは大きな欠伸をひとつすると、愛用の座布団を二つ折りに枕に引き寄せ、目を閉じた。
「あれぇ?イルカ先生、今日はアカデミー?」
火ノ国の大名へ、火影からの書簡を届ける期間三日の任務を一日半で終わらせ、里へと戻った昼下がり。受付所にいつもの顔はなく、カカシはがっかりして、イルカと仲の良い同僚の前へと、報告書を差し出した。
「お疲れさまです。カカシさん、今日、イルカは非番ですよ。家でゴロゴロしてるんじゃないですかねぇ」
「非番だったの?」
「そうですよ。折角の誕生日で非番だって言うのに、イルカも寂しい奴で五月晴れのデート日和だって言うのに、今日は掃除と洗濯をするって、色気のいの字もない。カカシさん、イルカに誕生日を祝ってやってくれる可愛い女の子のひとりでも紹介してやってくださいよ」
カカシが上下関係を余り気にせず、イルカや受付所の中忍職員達とは気さくな口を利く所為か、イルカの同僚もカカシに気安い軽口を叩く。
「そのうちネ」
(…なんて。俺がいるから、紹介なんか、絶対しないケドねー)
本音はさておき、カカシはにっこり笑うことで誤魔化して、「お疲れさまでした」の声を後に、イルカの住まうアパートへと足を向けた。
狭いベランダには支給服、シーツがはためき、柵には布団が干してある。シーツの暖簾を潜り、開け放しの窓からいつものように侵入する。
「イルカせんせー、遊びましょー♪」
子どもみたいな誘い文句を声掛けて、カカシはサンダルを脱いで、畳に足を着く。い草の感触が素足に心地よい。翻るシーツが窓を覆っているので、室内は薄暗い。イルカの気配はするのに返答がない。いつもなら、「窓から入るなって、何回言えば解るんですか!」と、イルカの小言が飛んで来てもおかしくないのに。カカシは室内を見回す。卓袱台の影からにゅうっと足が伸びている。
「…何だ、いるんだったら返事してくださいヨ」
玄関にサンダルを置いて、卓袱台の影を除けば気持ちよさそうに寝息を立てたイルカがこの平和を謳歌しています的な幸せそうな寝顔を晒して、熟睡していた。
「…珍しい」
カカシは呟く。イルカの寝顔をカカシは見たことがない。あるとしたら、セックスの最中にふっと意識を飛ばして、くったりとなってしまった時くらいだ。セックス無しに一緒の布団に包まって寝ていても、イルカの体温の心地よさに負けて、先に寝てしまうのはカカシの方で、そして朝、起きるのはイルカの方が早く、カカシはイルカの寝顔にお目に掛かったことがなかった。カカシは徐に額当てとクナイホルダーを外し、ベストを脱いで、口布を下ろして、イルカの横にごろりと転がり、まじまじとイルカの顔を眺める。男らしい硬い線を描く顎、額に掛かる落ちた黒髪、頬に濃い影を落とす黒々とした睫毛は思いの外、長い。
(…そう言えば、こんな風にこのひとの顔、見るのも初めてだな)
静かなでもどこか幸福感に満ちた寝顔。カカシは嵌めたままの手甲を外して、イルカの頬に触れる。何度となくその頬に触れてきたハズなのにひどくドキドキする。鼻の上を走る皮膚が盛り上がった一文字をそっと指でなぞる。「んっ」とイルカの眉が寄せられ、カカシは慌てて指を引っ込めた。
イルカの落ちた目蓋がゆっくりと開いて、瞬く。黒目がカカシに気づいて驚いたように見開き、ふわっと花がほころぶように口元に笑みが浮かぶ。
「…カカシさん…」
カカシの名を愛しそうに呼んで、にへらと嬉しそうにイルカは笑うとぱたんとまた目蓋を閉じてしまった。…ただ、寝ぼけて、イルカが自分の名前を呼んだ。…それだけなの、にカカシは息も出来ずにそれを間近で目にし、一層、激しく鳴り始めた胸の鼓動に息苦しさを感じて、漸く、呼吸を思い出して、詰めていた息を吐いた。
(…この俺を殺せるのは、きっとイルカ先生だけだよ…)
頑是無いイルカの無防備な、カカシを信頼しきった微笑は心臓を止めてしまいそうになるほどの殺傷力を持って、やわらかくやさしくカカシの胸を引っ掻いて甘く溶かし、壊してしまいたいような劣情を、穏やかな安寧を安らぎを、カカシにもたらして霧散していく。…カカシはイルカの頬を撫でた。
「…イルカ先生は、ズルい…」
頑固で融通は利かないし、怒ると怖いし、怒ったら子どもみたいに拗ねて、口を聞いてくれなくなるイルカを嫌いになろうとしたって、自分に向けられる笑みひとつで容易く許して、寛容出来てしまう。許され、愛され、与えられた、無償の愛で包まれたぬくぬくと心地よいイルカの傍を離れたくないと思う。
こんなに俺を惚れさせるなんて、ああ、本当に怖くて、堪らなく愛しくて、どうなってもいいと思っていた、いつ死んでもいいと思っていた心をいとも簡単に覆してしまったひと。このひとががいる限り、俺は死んでも死にきれない。
「ひどいひとですよ、アナタは」
里の為じゃなく、今はアナタの傍に居たくて、アナタの傍らを誰にも譲りたくなくて、独占したくて、俺は生きてる。
誰かのために生きたいだなんて、昔は思いもしなかったのに…。
カカシの呟きは吹き込んだ薫風に浚われた。
「んあ?」
肌寒さにぱちりとイルカは目を開く。高かった日は傾き、部屋は暗く、翻るシーツが朱に染まっている。結構な時間寝てしまったようだ。イルカは洗濯物を取り込もうと体を起こす。その体の上を、自分の腕ではない白い腕がずるりと落ちて、イルカは目を見開いた
「…あれ?…カカシさん?」
いつの間にか、銀髪を夕日の朱に染めた上忍がイルカに張り付くようにして眠っている。それを見下ろし、イルカは鼻柱の傷を掻いた。
(…帰ってくるの、明日じゃなかったけ?)
自分がカカシに渡した依頼書にはそう書いてあったはずだが、要領の良いこの上忍は持ち前の器用さでさっさと任務を終わらせ、帰還してきたのだろう。
「お帰りなさい」
明日、受付で掛けるつもりだった言葉と一緒にカカシの銀色を撫でて、イルカはカカシの寝顔を見つめる。夜を一緒に過ごして、朝を迎える度に暫しの間、見つめるその顔は恐ろしく整っていて、まるで良く出来た人形のようだと思う。高い鼻梁、形の良い唇、閉じた目蓋を縁取る銀色の華奢な睫毛。写輪眼を眼窩に収めた左目を縦に走る傷はカカシの悔恨が刻まれた失った大切なひとへの墓標のようだと、イルカはその傷を目にする度に思う。その目は時々、知らず知らずのうちに涙を流す。夜が明けるほんの一瞬の間に流される、カカシ本人も知らない涙に気づいてから、そっとイルカはそれを拭うのに腐心している。その為にどんなに体が辛かろうが、カカシより早く、起きなければならなかった。でも、それはイルカに許された特権だ。
あなたのその涙を拭うのは、俺だけにしてくださいよ。
晒されたカカシの顔を眺め、今は乾いた頬を、縦に走る傷をイルカは撫でる。その指先に擽ったそうな顔をして、青と三つの焔を灯した赤を瞬かせ、カカシはイルカを見上げた。
「お帰りなさい、カカシさん。任務、お疲れ様でした」
改めて、そう声を掛ける。カカシはそれにうっとりと笑んだ。
「…ただいま。いるかせんせ」
寝起きのどこか舌足らずな甘い声と一緒に腰に回る腕。イルカは目を細めた。
「早かったですね。帰還は明日だったでしょう?」
「ええ。でも、どうしても、今日のウチに帰って来たかったので、寝ずに駆けて来ました」
「…無理しちゃ、駄目ですよ?」
「出来ることは、無理じゃないですよ。…ただ、早く、帰りたかったから」
どうしても、この日だからこそ、カカシはイルカに伝えたい言葉があった。
「イルカ先生、誕生日、おめでとうございます」
その言葉に大きく見開かれた、イルカの黒目がくしゃと歪む。泣きそうな顔を一瞬だけ見せて、嬉しそうに破顔する。
「ありがとうございます。覚えていてくれたんですね」
「当たり前デショ。…洗濯物取り込んで、買い物行きしょーか。今日は俺が飯、作りますからねー。もう、準備してあるんですよ。今日は俺の家でお祝いしましょうね。あ、ちゃんと、ケーキ、予約してありますヨ」
「…用意周到ですね」
「忍ですから」
その言葉にぱちくりと目を開いたイルカにカカシは胸を張る。それにイルカはおかしそうに笑った。
「くく、そうですね。…ねぇ、カカシさん、プレゼントにキスが欲しいです」
笑った恋人が珍しく、カカシに直截なものを強請る。それにカカシは驚いて、イルカの顔を凝視したが、ふうっと小さく息を吐いた。
「…俺、アナタには一生、敵わない気がします」
「写輪眼のカカシにそう言われるなんて、光栄ですね」
イルカの笑う唇にカカシは唇を重ねた。
[28回]
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