別れたくなかった。でも、別れるしかなかった。
イルカに甘えて、ずっとないがしろにしてきたのはカカシだ。イルカが「別れたい」とカカシにに告げるのは、すでに決定事項となっていることに薄々、気づいていたくせに、そんなことがあるはずないとイルカの好意の上に胡座をかいていた。
今日の任務は本当にひどいものだった。任務とは言え、まだ、頑是無い幼子をこの手で殺してきた。温かい血の感触が今も手に残り、血の匂いにどうしようもなく興奮し、理性を失った獣のようになっている姿をイルカにだけは見られたくなくて、カカシは女を買った。猛りを絞り出してしまえば、急速に獣じみた本能は冷めて、寒さを感じて、ぬくもりが恋しくなった。
求めているのは紅と白粉と媚薬混じりの香水の匂いをさせた生温い肌ではない、イルカの陽だまりのような、僅かな汗と日なたの匂いのする熱い肌だ。あの肌に鼻を埋めて、疲れた体を休めたい。それは赤子が母親に求めるものと似ていて、それを知らずに育ったカカシにとって、イルカはカカシが密かに求めていた家庭のぬくもりそのものだった。
イルカが自分をはにかみながら「好きだ」と告白してくれたのが嬉しかった。イルカが慈しんできた子どもと同じように、自分に笑んで、触れてくれることがカカシには嬉しかった。
抱きしめて、キスをして、その体にカカシを受け入れるのは、カカシだけにイルカが許した特権だった。イルカにカカシは夢中だった。ずっと欲しいと願ってきたものが、向こうから転がり込んできて、それは、カカシをずぶずぶと際限なく許し、やさしく受け止め、甘やかす。…それが、どれほど得がたいものあるか解りもせずに、与えられて、カカシはいつしか当然だと思うようになっていた。
カカシはイルカから与えられるばかりで、イルカには何も与えなかった。何も返さなかった。イルカが何を欲しがってるものを知っていたくせに、カカシは気づかない、知らないフリをして、ただ、イルカを貪ってきた。自分の素行を省みることなどしなかった。イルカが何も言わないのをいいことに、自分が何をしても、イルカは許すのだと信じて疑いもしなかった。 変わらないカカシにイルカの浮かべる笑みは徐々に陰りを帯びていった。それは自分の所為だったのに、カカシは辛気臭い、どうして、そんな顔をするんだと腹を立てて、イルカを遠ざけ、女から女へ、肉欲に溺れて忘れようとした。でも、女を抱けば抱くほど、女の肌よりも、イルカの肌が恋しいと思う。昂められて、嬌声を押し殺そうと足掻き、涙を零し、浅黒い肌を粟立たせ、自分の名を愛しげに呼んでくれるイルカを抱きたいと思う。そう思った瞬間、閨にある買った女の絡みつく腕が鬱陶しく思えて、カカシは纏わりつく腕を払い、金を置いて娼館を出た。
ひとを尋ねるには非常識な時間だと、傾いた月を見て思ったが、衝動は止められない。イルカは自分を無条件に受け入れてくれる。無邪気に信じていた。ドアを開けて、カカシを見たイルカの昏い目を見るまでは。
ドアを叩く。忍び服姿のままドアを開けたイルカは、カカシの目にもやつれて見えた。…今日はやさしくしてやろう。…傲慢なことを思いながら、イルカの名を口にしようとしたが、カカシは出来なかった。カカシを見とめ、ふっと目を閉じたイルカの目は光を失くし、ただ黒く虚ろなものに変わった。
「…カカシさん、俺、もう、疲れました」
イルカのカサカサに乾いた唇が枯れた声を絞り出す。そこに、イルカがカカシにずっと向けてきた愛と呼べるものは何もなかった。悲しいとか、憎いだとか、そんな負の感情すら何も感じられない。イルカのカカシへの感情は、今の言葉で最後の一滴がぽたりと落ちて、空っぽになってしまったことをカカシは知った。
「俺から始めたことなのに、すみません。殴ってくれていいです」
殴られるべきは、自分だ。イルカは何も悪くない。何かを言わなければ、このまま聞きたくない言葉を耳にすることになる。なのに言葉は沈黙に邪魔をされる。
「…別れてください」
決定的な言葉を訊いた。それは覆らない、イルカの中で決定したこと。「嫌だ」と、カカシは言う権利さえない。
嫌だ!俺を捨てないで…。
喚いて、泣いて、足元に縋りたいような、悲しい気持ちに、カカシは襲われる。でも、そんな感情を自分が抱くことは、許されない。今まで、イルカを散々、傷つけてきたくせに自分が傷ついて、初めて、痛いと思うなんて、あんまりにもあんまりだ。
カカシは何も言えずに、逃げるように踵を返した。振り返りたくても、振り返ることさえ許されない気がした。
終わったのだと、ただ、それだけが胸をきつく締め付ける。
イルカの「別れてください」の言葉と一緒に、この世界も終わってしまえば良かった。そうだったら、こんな、初めて味わう失ってはいけないものを失ってしまった喪失感に苛まれることなんてなかっただろう。
手を伸ばせば、欲しいものは相変わらず変わらないまま、そこにあった。でも、それに、触れることは叶わないし、許されない。それでも、縋るように、一緒に過ごした三年間をリセットして、接点などなにもなかった過去に再び身をおいたイルカの体にカカシは触れてしまう。指先に一瞬だけ、イルカの熱を感じる度に、カカシの中は幸福感と後悔で胸がいっぱいになって、枯れ果てて出もしない乾いた涙が頬を伝う。鼻の奥だけが痛くなる。カカシの空っぽの箱をイルカは満たしてくれたのに、それはあの夜、飛び出し霧散した。空っぽになった箱を抱え、カカシは途方に暮れるしかない。
異国の神話に出てきた、愚かな娘が開けてはならぬと言われた箱を開け、この世の罪悪が、負の感情が開放された時、箱の片隅に残ったのは希望だという。
真っ赤に塗りつぶされ、乾き黒くなった箱。俺の箱の中には、何もない。空っぽだ。なんて、昏くて、寂しい。
箱の中に残ったのは、寂寥。
忘れていた寂しさを思い出させたのは、イルカだ。
その寂しさを癒すことが出来るのも、イルカだけだ。
寂しさを紛らわそうと、過酷な任務に没頭し、肉欲に溺れ、酒を飲んでも酔えもせずに、薄れることなく孤独は深まっていく。寝ても覚めても、思い出すのはイルカのことばかり。この手を赤に汚し続けながら、カカシの中を言葉にならない欲求がぐるぐると回る。そして、とうとう、溢れた。
「アナタが好きです。俺と付き合って」
イルカといる間、言えなかった言葉。「好き」だと、どうして素直に、言えなかったのか。差し出した報告書に視線を落としたままのイルカの肩が僅かに揺れたが、その言葉にイルカは事務的に言葉を返すだけだった。
「…それは、命令ですか?」
「違います」
命令なんか出来るはずがない。そんな権利は、自分にはない。ただ、みっともなく愛を目の前のイルカに乞うことを許されるならば、今、ここで、くだらないプライドを捨てて、その足元に跪き、許しを請いたい。
「結構です。お疲れ様でした」
「…返事を頂きたいんですが」
顔を上げ、報告書に受領の印を押し、イルカは顔を上げ、カカシを見上げた。久しぶりに正面から、カカシはイルカの顔を見た。その目は昏いままで、カカシの心は軋みを上げた。
「俺と付き合いたいのでしたら、今付き合ってる女性の方、俺が知ってるだけでざっと三十人ほどですか…、他にも居らっしゃるんでしょうけど、その方達と別れて来てください。そうしたら、真面目に考えます」
イルカの素っ気ない言葉に隣に座っていたイルカの同僚が我に返った青褪めた顔で、イルカの袖を引っ張るのをカカシはぼんやりと見やる。胸にじんわりと熱のようなものが広がる。
…考える…と、アナタが言った。
初めて、アナタが俺に条件を付けてきた。
まだ、アナタは、馬鹿な俺を許してくれるの?
「次の方、どうぞ」
「…え、は、はいっ」
カカシの後ろに並んでいた若い忍は困ったように報告書を受け取ろうと伸ばされたイルカの手と、無言でそれを見下ろすカカシを見やり、困惑する。それを気にするでもなく、イルカが報告書を受け取るのをカカシは見ていた。
「…解りました」
可能性があるのなら、それに縋る。全部、失くしたっていい。最後に、イルカが残るなら。今まで付き合ってきた女など、芥のように捨てられる。
(…ああ、そうか…)
今まで、自分のやってきた馬鹿な言動が何のためだったのかと、カカシは腑に落ちる。
ただ、何も言わずに許すばかりのイルカから、嫉妬だとか、思い通りにならない憤りだとかそう言った負の感情を、醜い独占欲を自分に向けて欲しかったのだ。それがなかったから、ずっと不安で試すようなことばかりしてしまったのだ。
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色々、ひどい上忍様。後、二話ぐらいで終わる予定。
[50回]
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