「…駆け落ちでもします?」
唐突に発せられた言葉に、イルカは採点していたテスト用紙から顔を上げ、座布団ふたつ折りを擦り切れた畳と脇の間に挟んで、いかがわしい本を飽きもせずに読んでいるカカシを見やった。
「…は?」
遅れて漏れた疑問符に、カカシが顔を上げる。それをイルカは見つめ返した。
「イルカ先生、俺と駆け落ちしましょう」
「…する必要性を感じません」
そう言えば、カカシはむうと眉を寄せ、
「ありますよ。先生、全然、俺のことかまってくれない」
拗ねた口を尖らせ、カカシは体を起こすとイルカを睨む。睨まれたイルカは溜息を吐いた。
「仕方ないでしょう。アナタが早く帰ろうって五月蝿いから、これでも残ってる仕事切り上げて来たんですよ。ワガママ言わないでください」
「ワガママなんて、言ってません!アナタと俺は恋人同士なんですよ!恋人って四六時中一緒にいて、イチャイチャするものでしょ?アナタが人前でイチャつくのはイヤだって言うから、抱きつきたいのも触りたいのも、キスしたいのも我慢してます。家に帰って、やっとイチャイチャ出来ると思ったら、アナタは「食事の支度が」「風呂が」「洗濯物が」でバタバタしてて、落ち着かないし、やっと、落ち着いたかと思ったら、持ち帰りの仕事始めちゃうし、寝るってなって、イチャイチャ出来ると思ったら、「明日は一限、体術だからしません」とか「朝早い」とか、「疲れてるからイヤ」だとか、そう言うことばっかり言うし、俺がそれに文句言ったことありますか?ないですよね?」
堰が切れたかのようにカカシが言う。それにイルカは「うっ」と声を詰まらせる。確かにここ最近、忙しかった所為もあって、カカシを思いやることもなく、邪険にしてきた覚えがある。それにカカシが何も言わないことをいいことに、つい、甘えてしまっていた。
本当は解っていた。カカシが控えめにかまって欲しいとイルカに訴えていることに。何気なく、イルカのシャツの裾を子どものように引っ張って、イルカの気を引こうとしたり、イルカが仕事にかまけて疎かになっていた家事全般をこなし、晩飯まで作って、カカシは残業で遅くなったイルカの帰りを待ってくれた。カカシとの約束を反故して同僚と飲みに行った時だって、「楽しんで来てください」と心よく送り出してくれた。文句ひとつ言わず、決して、押し付けがましい、恩を着せるようなことは言わず、カカシの方が任務で疲れているはずなのに、カカシはそれを微塵も感じさせずイルカを反対に労ってくれていた。
「仕事が大変なのは解ってます。内勤のアナタは俺と違って、任務が終われば仕事が終わるわけじゃない。でも、ふたりでいる時間ぐらい、俺のこと見てくれてもいいでしょう?…それが出来ないって言うなら、俺、アナタを拐って、里を抜けます。遠い、誰も居ないところで、俺とふたりで暮らしましょう?」
真摯な眼差しで見つめられ、イルカは言葉が出ない。カカシの目は駆け落ちを真剣に考えている。そして、それを実行出来るだけ全てのものをカカシは持っていた。
「…そんな事のために、抜け忍になるって、言うんですか…」
ふたりでいる時間がほしい。そんな些細なものの為に、里を捨て、命を懸けて逃げまわる生活を選ぶなんて、馬鹿げている。本気かとイルカはカカシを見やった。
「その覚悟はあります。…同胞を手に掛けることになるでしょうが、仕方がないですね」
(…このひと、本気だ…)
あっさりと何の躊躇いもなくカカシは言い放つ。いつものカカシの戯言だと高を括っていたイルカは顔色を変えた。
「眼のことがありますから、追手も容赦しないでしょう。俺も死にたくないですから」
閉じた左眼に触れ、カカシは淡々とそう言うと、じっとイルカを見つめる。
「俺が今、里に忠誠誓ってるのは、あなたが里にいるからです。俺にはね、あなた以外に大事なものなんてないんです。里から肉親は奪われたし、俺が弱かったから、仲間も師も守れなかった。…失うのが怖くて大事なものなんか作れなかった。自分の命すら、どうだって良かった。そんな俺にただ、ずっと忠誠を誓わせてきた里が俺を道具のように扱いこそすれ、俺に何をしてくれました?…あなたに会わせてくれたことだけは感謝していますが、俺はこの里に何の未練もありません。里が俺の邪魔をすると言うなら、誰であろうとも容赦はしません。斬って捨てるだけです」
何て、重い愛の告白だろう。イルカは息が詰まりそうになる。飄々としつつ、ただ里に縛られるのを諾とし、里から下された命を淡々とこなすこ為だけに生きてきた男が、里を捨てると簡単に言ってのけた。イルカより大事なものはないと言う。イルカはどうしたらいいのか解らず、ただ、カカシの表情のない、そのクセ、目だけは感情を雄弁に語る端正な顔を見つめた。
「馬鹿なことをって、あなたは思うでしょう。俺はあなたさえいればそれでいいから、あなた以外の他のものは簡単に捨てられるんです。でも、あなたには無理だよね。ここにはあなたの大事なものばかりだもの。…俺はあなた以外に大事なものなんてないけど、あなたの大事にしてるものは俺も大事にしたいって気持ちはあるんですよ。…あなたは俺だけじゃなくて、ナルトや他のひとにも愛されてるひとだから…」
ふっと視線を緩め、カカシが微笑う。それに、イルカは泣きそうになった。
「…でもね、ちょっとだけでいいです。あなたの気が向いた時でいい。数時間、数分でもいい。俺にあなたを独占させてよ。…お願い…」
縋るように抱き寄せられて、懇願するようにそんなことを言われて、心が痛い。この男には自分しかいないのだと切々と訴えている。それを振り払うことがどうして、出来るだろう。イルカはぐずっと鼻を啜った。
「…ご、ごめんなさい。俺、カカシさんに甘えてた…」
カカシの肩に額を押し当てる。それにカカシがあやすようにイルカの背を叩いた。
「いいの。俺、年上だもん。あなたを甘やかしたいよ。でも、俺もあなたに甘えたいの」
囁かれる声に顔を上げれば、カカシはイルカの目尻に浮かんだ涙を拭う。それにイルカはぐいっとまた、溢れてきた涙を拭った。
「…カカシさん、俺…、」
ナルトの顔が胸を過る。三代目や、死んだ両親、いつも顔を合わせる気のおけない同僚達、自分を慕ってくれる子どもたちの顔が次々と思い浮かんでは消えていく。
「あなたとなら、どこまでもついて行きます。地の果てだって、地獄の底だって、」
誰も、自分を引き止めることなど出来ない。この男が差し出す手を躊躇っても、最後には取ってしまう。
「あなたが望むなら、どこまでだって、俺、ついて行きますから!」
イルカの必死な表情にカカシは目を見開いて、瞬く。その目が一瞬泣きそうに歪められ、笑むのと同時に強く、抱き寄せられる。
「…その言葉だけで、すごく嬉しい…」
好きだし、愛してるし、一生をこの男と添い遂げたいと思っている。それを口に出して、ちゃんと言えないから、不安になる。お互い、言葉が足りないことに自覚はあるけれど、胸の内を上手に伝える術を知らない。
イルカはカカシの背中に爪を立てる。今、この腕の中にいる男が可愛くて、愛しくて、仕方がない。
「…カカシさん、」
近場で日帰りで良ければ、ふたりで駆け落ちしましょうか。
イルカの唇から、そんな言葉が漏れるのは久方ぶりに交わした甘い口づけの後のこと…。
□□□
愛情過多の上忍版。
[67回]
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