「イルカ先生、断崖の絶壁に俺とナルトが今にも落ちそうにぶら下がっています。絶体絶命の大ピンチです。先生が助けられるのはたったひとりだけです。先生は俺とナルト、どちらを助けますか?」
いかがわしい本から顔も上げずにいるカカシからの唐突な質問に、イルカは作成していた小テスト問題から顔を上げ、カカシを見やった。カカシは時折、イルカの愛情を測るようなことを言ってくる。それにイルカがカカシの満足する答えを出せれば良し、出せなければ機嫌が悪くなり、「愛が足りない」などと文句を言い、べったりとイルカに張り付いて、仕事の邪魔をしてくる。自分が一番、イルカに愛されて当然だと憚りもしない、わがままな困った男だ。そんな男を可愛いと思ってしまう自分も大概、末期だ。イルカはひっそりと溜息を吐いた。
「ねェ、どっちを助けるの?イルカせんせ」
晒した美しい顔を漸く上げ、極上の笑みを浮かべ、カカシが問う。天女のようだが、脅しを含んだ極悪な顔をしている。イルカはカカシから、テスト問題へと視線を落とした。
「ナルトですよ」
そう答えた瞬間、ぶわりと部屋の空気が剣呑なものになる。…上忍様が聞くまでもない馬鹿なことを言うなとイルカは思う。
「…何で?」
嘘でもいいから自分だと言って欲しかったらしいカカシの冷たい声が耳に痛い。この男、時々、扱いに困る。本当に面倒くさい。
「あなたは大人で上忍でしょう?…選ぶまでもないでしょうが。ナルトじゃなくても、他の子でも、俺はあなたより先に助けます」
イルカの杓子定規な答えはやはりお気に召さなかったようで、カカシは盛大に拗ねた。
「じゃあ、子どもの俺とナルトだったら?」
「ナルトですね」
ビシッと空気が凍る。殺気を滲ませて、カカシはじっとりとイルカを睨んだ。方向性を間違えた嫉妬で歪んだ醜悪であるはずの顔はいつもより剣呑だが、凄みを増して、カカシの美貌を際立たせている。本当の美人はどんな顔をしても美人だとイルカは思う。最初は般若のように恐ろしいと思ったカカシのその顔も、見慣れてしまえば恐ろしくもなんともない。…またか、と、思うだけだ。
「先生は俺より、ナルトが好きなの?」
「あなたとは違った意味で、好きですよ。甲乙はつけられません」
「違った意味って、何?ナルトと俺はどう違うの?」
「そうですね、俺にとって、ナルトは弟、守ってやるべきこどもです。あなたはキスやセックスをしてもいい恋人ですよ。…大体、あなたは俺なんかに守られたり、助けを求めたりするひとじゃないでしょう?」
だから、助けません。…例え、窮地に陥っても、カカシはイルカに助けられることなんか望まないだろう。むしろ、イルカの窮地を颯爽と救いたいと思っているはずだ。上忍の意地か、男の挟持かは置いておいて、恋人に見苦しい死に様は見られたくないとカカシが思っていることをイルカは知っている。それはイルカとて同じだ。見苦しさは承知の上で、これは戯言なのだと承知していて、自分を選択して欲しいと言う淡い恋心は解らなくもない。カカシの嫉妬を多分に含んだ殺気が痛いのに心地よい。イルカは視線を上げた。
「…でも、ナルトを選ぶんだ…」
ぶすりと頬を膨らませ、口を尖らせカカシが言う。…カカシは図体だけ大きくなった、未だ無償の愛を乞う困った子どもだ。乞われれば何でも与えてやりたくなるが、カカシにだけは無償とはいかない。イルカは立ち上がると、カカシの前に立ち、ぐいっとカカシの頬を両の手のひらで包み、上向かせると、通った鼻梁にがぶりと噛み付いた。
「ひゃっ!?」
噛み付かれたカカシは鼻先を抑え、イルカを見上げる。イルカはカカシを見下ろした。
「あなたが落ちたら、後追って、俺も飛び降ります。それが嫌なら、根性見せて、自分で這い上がってきてください」
カカシへの愛は無償ではない。高い代償の伴った、返品の利かない愛だ。その代わり、際限なく無限ではあるけれど。
フンっと鼻を鳴らして、イルカは卓袱台の前へと戻る。それをぽかんと見送って、カカシは口元をだらしなく緩ませると、本を置いて、イルカの背後へとにじり寄った。
「…イルカせんせい…」
「何ですか?」
「…俺って、自分が思ってるよりも、せんせいに愛されてます?」
「今頃、気づいたんですか? 愛してなきゃ、叩きだしてますよ。仕事の邪魔しないでください。鬱陶しい」
べったりと背中に懐いてきたカカシに悪態をひとつ返して、小テスト問題を作るのを諦めると、とろけるような幸せそうな笑みを浮かべたカカシの口づけに応じるべく、イルカは目を閉じた。
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上忍様はこんなこと、言わない気もしますが、まあ、ご愛嬌ってヤツで。
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