つまらない、理由は何だったか…?
そう、カカシと茄子の味噌汁のことで大喧嘩したのだ。「輪切りは邪道、短冊に切ってくださいヨ」とぶすりと味噌汁に浮かぶ茄子にカカシが文句を言ったのに、イルカは大人気なくキレた。…いつもなら、笑って聞き流せるカカシの我儘めいた言葉が、どうしても聞き流せなかったのは、積もり積もったイライラが溜まっていたからだ。
演習中に子どもが些細な怪我をした。それだけでも、十分にイルカは肝が冷える思いをした。その怪我は幸いなことに擦り傷程度の小さなものだったのだが、その子どもの親が忍ではない親だった為、演習に危険が伴うのを理解しておらずアカデミーの職員室にまで乗り込んでくる騒ぎになり、対応に苦慮し、何とか、納得して帰って頂いた後、五代目に呼び出され、綱手が溜め込んだ図書の返却作業におわれ、受付に入れば、質の悪い上忍に愚痴愚痴と八つ当たりな文句を延々付けられ、二時間も絡まれた。その場に居た同僚に同情され、「今日はもう上がれよ」と優しい言葉を掛けてもらって、帰宅したら、自分の家のようにくつろいでいる上忍様が、「お腹すいた」と子どものようなことを仰る。コンビニで買ってきた夜食を差し出せば、「イルカ先生の作ったご飯が食べたいです」とほざく。それに、苛立ちを覚えたが、それを相手にぶつけるほど、イルカは子どもではない。言いたい文句をぐっと収め、台所に立った。
(…このドクサレが!俺が遅くなるの、解ってんだろーがッ、どっかで適当に食ってこいよ!!)
苛立ちは罪のない食材にぶつけられることになった。そして、カカシに茄子の切り方が悪いと文句を付けられた。
「…文句があるなら、食べて頂かなくて結構です」
「食べないなんて、言ってないでショ?これから、気を付けてねって言ってるだけです」
輪切りだろうが、短冊切りだろうが、茄子は茄子だろうが。自分で作りもしないくせに、文句だけは人一倍か。苛立ちがピークに達し、イルカは乱暴に箸を置いた。それを見咎め、カカシが口を開く。その口から出てきた言葉が、イルカの頑丈な堪忍袋の緒をぷちんと切らせた。
「何、イライラしてるんです。生理ですか?」
気がついたら、卓袱台が宙を舞っていた。ご飯粒が、味噌汁が、具の茄子が、野菜炒めのもやしと肉とキャベツが、食器が一瞬の空中遊泳の後、ばしゃりと畳の上に無残に落ちた。
「…出て行け。アンタの顔なんか、見たくもない!!」
腹立ちまぎれに殺気全開で、カカシを睨めば、カカシは今、起こった出来事が、イルカに殺気を向けられたことが信じられないのか、箸を握ったまま硬直している。それに余計に腹が立った。
「出て行けー!!」
子供相手に鍛えた腹式呼吸で、イルカは今は亡き三代目をも従わせてきた怒声をカカシに浴びせた。カカシはびくりと背中を震わせ、箸を握りしめたまま這々の体でイルカの部屋から退散していた。それに溜飲が下がるが、後の惨状を思えば、イルカの口からは溜息しか出ない。
「…あー、勿体無ぇ…」
味噌汁は畳が吸い、べちょりと具の茄子が張り付き、野菜炒めと白飯は散乱。食器が幸いな事に割れずに済んだことに安堵して、引っ繰り返った卓袱台をイルカは戻し、また溜息を吐いた。
(…茶、ぶっ掛けるだけにしとけば良かった…)
あの上忍様のことだ、華麗に避けて、更にイルカの苛立ちに油を注いでくれていたことだろう。…食えるものは拾って食べて、出来なかったものは三角コーナー行きになる。一瞬のことなのに後片付けは時間が掛かって面倒くさい。イルカは後始末を終えると、持ち帰りの仕事に手を付ける気にもならず、風呂にも入るのも面倒で、さっさと布団に潜り込んだ。
人間、眠れば、大抵のことはリセットされる。
イライラしていたことも、カカシを怒鳴り、追い出したことも寝て起きて、風呂に入ったら、イルカは忘れた。…が、夕方近く、そろりと受付に顔を出したカカシの顔を見た瞬間に、べちゃりと畳にへばりついた茄子のことを思い出した。
「…あの、これ…」
イルカの機嫌を窺うようにおずおずとカカシが差し出してきた報告書をイルカは貼り付けた笑顔で受け取る。スマイル0円。仕事に私情は挟まない。
「お疲れ様です。お預かりします」
冷えた空気が受付に広がる。隣に座った同僚は何か言いたげな顔でちらりとイルカを見やったが、イルカはそれを無視し、黙々と報告書の確認に勤しむ。
『おい、イルカ』
『何だよ?俺、忙しいんだけど…』
『お前、はたけ上忍と喧嘩でもしたのかよ?』
『…は?してねぇよ』
『じゃあ、何で、泣きそうな顔で、はたけ上忍、お前のこと見てんだよ!』
唇の動きを俯きつつ、読んで言葉を交わす。イルカは心中、溜息を吐く。いつの間にか、カカシとの仲は公然公認になり、カカシに何かあればイルカに話が回ってくる。…ああ、本当に鬱陶しいし、面倒臭い。
(泣きそう?…ハン、あの上忍様がちょっと冷たい態度とったぐらいで泣く訳ねぇだろうが!)
ビンゴブックの上位に名を連ね、高額な懸賞金を懸けられた他里の忍も恐れる写輪眼のカカシが公衆の面前で泣くなんてことある訳がない。
「確かにお預かりしました。はたけ上忍、お疲れ様です」
イルカはいつもは「カカシさん」と親しみを込めて呼ぶのだが、べちゃりと畳に張り付いた茄子の残像が頭を過ぎり、わざと「はたけ上忍」と意識して、カカシが嫌う素っ気ない呼び方をした。張り付いた笑顔でそう言って、イルカは視線を直ぐ様逸らして、受理した報告書を決済へと回す。
「…うわっ」
誰が漏らした声だったか、次の瞬間、どよめきが起こり、水を打ったかのようにシーンと静まり返る。かさりという書類の重ねられる音も、会話も、果ては呼吸音すら聴こえなくなり、イルカは顔を上げ、周囲を見渡す。急に誰もいなくなったのかと思ったが、確かに受付にはひとがいる。その人々は何か見てはいけないものを見てしまったような顔をして、視線を逸らし、息を潜めている。それを不思議に思い、首を傾げれば、その静寂に不意に嗚咽が混じる。それにまた、びくりとその場に居た者達の肩が震え、自分を居ないもののように隠すように身を竦めた。
「…っ、ひくっ、イ、い、るかッ、せん、せ…」
受付を静寂の地獄へと突き落としたものは、イルカの目の前に居た。
(…アンタは、幼児か。ちょっと、冷たくしたらいで、三十路前のおっさんのクセに、何、泣いてんだよ?)
怒鳴りつけてやりたくなったが、仮にも相手は上忍様だ。面倒はなるべく避けたい。「早く、この上忍様を何とかしろ!」この場にいる全員が、イルカにそう思っているだろう。イルカは溜息を吐いた。
「…モズク、」
「…お、おう」
「…ちょっと、席外す」
「…解った。後はやっとく」
同僚の返事を聞き終わらぬうちにイルカは席を立つと、カカシの手首を掴む。引きずるように受付を出る。イルカとカカシの姿が消えた瞬間、受付には安堵の吐息が漏れ、平穏が戻った。
受付を出るや、開いていた資料室にカカシを放り込んで、掴んだ手を解く。それに、「ひっく」としゃっくりが上がる。
「…何、泣いてんですか?」
「…っ、んっ、い、るかせんせが、おれのこと、した、の、なまえ、…よんで、…っくれ…な…」
口布も左目を覆った額当ても、涙でびしょびしょに濡れている。張り付いて息がし辛かろうと、イルカはカカシの鼻先の布を掴み、引きずり下ろし、ついでに額当てを取り去る。昔はあんなに見るだけでときめいた、今はすっかり見慣れて有り難みも失せてしまったカカシの年不相応な美貌を保った顔は涙と鼻水の大洪水で台無しである。イルカはポーチから手ぬぐいを取り出すと、カカシの顔を丁寧に拭った。
「…おれのこと、き、きらいに、ならないで…っ」
ぐずぐずと鼻を啜り、ボロボロとカカシの両目からは涙が溢れて落ちる。いつの間にか、ぎゅうっとウェアの裾を控えめに掴まれ、イルカは母親にでもなったような気分になる。
(…なんつーか、面倒くさいけど、このひとホント、可愛い…)
不覚にもそのちょっと汚れたカカシの顔に、イルカは不埒なときめきを覚える。もっと虐めてやりたくなるが、度を越すと後がこじれて面倒だ。
「嫌いになんてなりませんよ。…俺も昨日はごめんなさい。ちょっと苛々することがあって、つい、アナタに当ってしまいました」
素直に謝る。それに、カカシはまたしゃっくりを上げた。
「き、きらいになったんじゃない?」
「なるわけ無いでしょう。カカシさんが一番、好きですよ」
にっこりと笑って、涙で濡れた頬を撫でて、両方の目尻に交互に口づける。涙が止まったのを確認して、頬を滑る涙を拭って、鼻先に口付け、唇を重ねる。啄むようなキスに落ち着いたのか、カカシが吐息を漏らし、窺うように上目遣いにイルカを見つめた。それにイルカは芝居がかった仕草で視線を伏せた。
「…カカシさんこそ、俺のこと、嫌いになったんじゃないですか?」
そんなこと、思ってもいないクセに試すような言うのは、良心が少々痛むが、主導権は自分が握って置きたい。イルカはぎゅっとカカシの袖を掴んだ。
「なる訳、ないじゃないですすか!嫌なことがあったなら、俺に遠慮しないで、言って下さい。愚痴ならいくらでも聞きますから。…アナタのことなら、何でも知りたいんです!」
忍なら、裏の裏ぐらい読めよ。…まあ、敏くて狡猾なだけのひとだったら、カカシを好きにはなったりしなかった。自分にだけ抜けてるこの上忍様がイルカには可愛い。イルカは返事をする代わりに口づける。
(…このひと、本当に俺のこと好きなんだなぁ…)
好きと言うか、ベタ惚れ。そして、脇目もふらずに盲目。…三年目の浮気という言葉があるが、その気配はない。年を重ねるごとに、イルカの中ではカカシに対する遠慮が失くなり気安さが増して、愛とかそんな即物的なものよりも、年上のこの上忍を子どものように可愛いと思うばかりだ。反対にカカシは子どものように愛が欲しい言い、試すような我儘を言って、イルカを困らせる。そして、イルカの反応に怯えながら様子を窺う。本当に何人ものくノ一達を、名だたる娼妓達を泣かせ、袖にしてきたあの写輪眼のカカシがこんな冴えないむさ苦しい真面目だけが取り柄の男に惚れてるなんて、何かの間違いじゃないかと思うが、これは現実らしい。軽く合わせただけの唇が開かされ、ぬるりとカカシの舌が遠慮がちに口腔へと侵入してくる。いつもなら、張った押しているところだが、今回は自分も大人気なかったと反省もあるので、抵抗はせずにされるがまま、付き合ってやる。…ただ、腰に回り、尻を撫でた手は許容出来なかったので、その手を思い切り抓ってやる。カカシは涙目で抓られた手を擦り、イルカを恨めしそうに睨む。
「ここ、どこだと思ってるんですか?調子に乗らないで下さい」
「…えー、誰も来ないし、イルカ先生もその気だったデショ?」
立ち直りの早さも、この図々しさも、切り替えの速さも上忍故か。いつもの調子に戻ったカカシにイルカは溜息を吐いた。
「…殴りますよ?」
「…すみません。もうしません」
いい笑顔で拳を握ったイルカにカカシは平身低頭。それにくすりとイルカは笑い、カカシの頭をよしよしと撫でる。つんつんに跳ねた銀色の髪は思いの外、指触りがよく心地が良い。
「…俺、六時に仕事が終わるんで、一緒に買物に行きましょう。カカシさん、何か、食べたいものがありますか?」
「昨日食べそこねた茄子の味噌汁が食べたいです」
「…アナタもそれ、好きですねぇ。おかずは何がいいですか?」
「…秋刀魚って言いたいところですけど、時期じゃないですしね。魚なら、何でも…」
「…じゃ、魚屋さんに寄って決めましょう」
「はーい」
語尾にハートマークが付いたような気の抜けた返事だったが、声には喜色が混じる。資料室を出かけて、イルカは思い出したようにカカシを振り返った。カカシは引き下げられた口布を上げ、外された額当てを付けたところで、「ん?」と右目をイルカに向けた。
「なに?」
「…アナタの泣き顔見てもいいのは、俺だけですから、これからは公衆の面前で泣いたりしないでくださいよ」
カカシ絡みで公衆の面前で恥を掻くのは何度目になるか…。慣れたとは、まだ言いたくないし、カカシの泣き顔も、みっともないところも、可愛いところも自分だけが知っていればいい。そう思って、釘を刺す。その言葉にカカシは顔をへにゃへにゃと何故だか緩ませた。
「…何ですか、その顔は?」
イルカは眉を寄せ、カカシを見やる。
「いえ。…俺が思ってたよりも、イルカ先生、俺のこと好きでいてくれたんだなぁと思って」
「…好きですよ。アナタが思ってるよりは、ずっとね」
殺し文句をさらりと告げて、イルカはカカシを置き去りに受付に戻る。その後には、顔を真っ赤に悶えるカカシが残された…のだった。
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